短編集「ガールズ・ロンド」に収録予定の「溺れた私を救うのは」の試し読み版です。
作業中につき、細部が変わる可能性があります。ご了承ください。
「溺れた私を救うのは」
きっかけは、よくあるイジメだった。イジメによくある、なんて付けたくないけど。テレビで報道されたり、漫画に出てくるような、典型的なイジメ。授業で当てられて、私が立ち上がって答えを言っているとくすくす笑われたり、廊下を歩いているだけで男子にゲラゲラ笑われたり。靴を隠されたことは、三回。上履きならともかく、ローファーを捨てられた時は途方に暮れた。
そうして私は、中学校に入ったばかりだというのに、すぐに限界に達して学校に行かなくなった。外に出られなくなったのだ。
自分の部屋に引きこもって、私はノートパソコンを通してインターネットの世界に逃げ込んだ。
インターネットの世界は、いい。好きなことだけ見聞きできるし、私から発信しなければ傷つけられることもない。だけど私は、急に人恋しくなって、とあるSNSを使い始めた。そこで私と同じように不登校になっている女の子のノエルと知り合って、スカイプチャットでやり取りする間柄になった。
『おはよー』
私がパソコンを立ち上げるとすぐ、メッセージが飛んできた。
『おはよー。もう十一時だけどね』
素早くキーボードを叩いて返信すると、これまたすぐ返事があった。
『あたしらの特権じゃん。一月(いちがつ)は、今日何するつもり?』
一月は、私のハンドルネームだった。本名が睦月(むつき)だからって、一月にした。我ながら単純な名付け方だと思うけど、これしか思いつかなかった。もっとお洒落な名前をつけたかったけれど、どこか気恥ずかしくて。かといってありがちな名前だと、埋もれてしまう気がして。結局、これに落ち着いたのだった。
『決めてない。今日もだらだらネットかな。ゲーム実況たくさん見たい。ホラゲ最高』
『わかる。ホラゲ実況見て、実況者と一緒にぎゃーぎゃー怖がって騒ぐの最高すぎる』
ノエルとは、とても話が合う。中学校ではあんなに友達ができなかったのに、不思議だ。
ノエルの存在は、私に自己肯定感を与えてくれた。私は欠陥品なんかじゃないという。
私は最近眠るとイジメの記憶が夢に出てくるので、寝るのが嫌で夜更かししてしまう、ということを語った。
『そりゃそうだよ。私もそうだった。今は大分マシだけどね。脳内で何度も、いじめっ子を殺してやるとスッキリするよー』
そんな過激なことを言われて驚いたが、試しに妄想してみる。とてもいけないことをした気になった。
『いいじゃん。想像で誰も死なないんだから。あいつらのが有罪でしょ』
ノエルは私を否定せず、鼓舞してくれる。大切な大切な、友達だった。
「睦月ー」
扉越しに母の声が聞こえて、私はびくついた。
「お昼ごはん、できたよ。下りておいで」
「……わかった」
返事をして、私はノエルに『飯落ちします。またね』と打って、椅子から下りた。
リビングに行くと、お母さんが食器を並べているところだった。
今日の昼食は、きつねうどんだった。
昔はお母さんもパートタイムの仕事をしていたのだけど、今は私が心配なのか仕事を辞めて専業主婦になっている。
ずっと家にいられると気まずいから、働いてくれていた方がよかったのに、という嫌なことを思ったりもする。
「いただきます」
母と向き合って、きつねうどんを啜る。すると母が、気まずそうに切り出した。
「睦月。転校の話のこと、考えてくれた? 私立中学校なら公立よりも、穏やかな生徒が多くていいって聞いたの。もし普通の学校が辛いなら、フリースクールでもどうだろう」
「…………」
私は何も答えず、うどんを啜り続けた。
「すぐに返事しなくていいから、考えておいてね」
母は無難にそう言って、自分もうどんを食べ始めた。
お母さんも、かわいそうに。お母さんは、娘がイジメに遭うような子で恥ずかしいんだろうな。
そんなことを思うと泣きそうになって、私は素早くうどんを平らげて、食器を流しに持っていった。
その後、私は大好きなゲーム実況配信者の動画を見て、気を紛らわせた。
できそこない、と自分の奥底から声が響く。そう、私はできそこないなんだ。お母さんもお父さんも、私が明るい人気者になることを願っていたんだろうに。実際は、友達もろくに作れない不登校。
イジメで自殺というニュースを目にする度に、私も死ななくちゃという気分になる。
ぼんやり動画サイトを徘徊していたら、いつの間にか、もう午前一時を過ぎていた。私は部屋から出て、歯磨きを済ませてから、自室に戻った。
ベッドにもぐりこんで、ノエルに言われたみたいに、イジメに関わった子たちを頭の中で殺してみた。とてもいけないことだとわかっていながら、何とも言えない快感を伴う想像は、麻薬のようで。途中で止めてしまったけど、これで少し大人になった気がした。
翌日、私は昼過ぎに起きて、トイレに行こうと部屋を出た。トイレに行った後、リビングへと下りたが……リビングに知らない男の人がいて、凍りついた。
母と話していたその男性は、私の気配に気づいたのか、ふと振り返った。
こざっぱりとした髪型の青年は、私を目にするなり笑顔を浮かべた。
「あ! 睦月ちゃん」
その笑顔には、見覚えがあった。でも、どこで見たのか思いだせない。それに、どうして私の家に大学生ぐらいの男性がいるのだろう。
混乱しながらも、私は自分の恰好を意識する。ところどころほころんだ、熊の柄のパジャマだ。恥ずかしくなって、私は自分の部屋へと逃げ帰った。
ばたんと扉を閉めて荒い息をついていると、扉越しに声がかかった。
「睦月ちゃん、ごめん。俺のこと、覚えてないかな?」
「……わからない」
「そう。昔、近所に住んでて、何度か遊んだんだけどな。和史(かずし)っていう名前、覚えがない?」
かずし、と私は心の中で呟いた。
そして、急に思い出した。私が幼稚園の頃まで、隣に住んでいた一家がいた。そこの大分年上のお兄さんは、私とよく遊んでくれた。お兄さんは、妹を病気で亡くしたとかで、私を本当の妹のように、かわいがってくれた。
一家が家の事情で北海道の方に引っ越すと決まった時、私は大泣きしたのだった。
「……思いだした。でも、北海道に行ったんじゃなかったの?」
「今は東京の大学に通ってるから、東京で一人暮らししてるんだ。懐かしくなって、昔住んでいた家を訪れたら、君のお母さんに会ってさ。それで家の中に案内してもらって、ああして話していたんだ」
丁寧に説明してもらって、ようやく彼が家にいた理由が飲み込めた。
「……そう」
「よかったら、また話しに来ていいかな」
「……私と?」
「そう。北海道の話とか、聞いてほしいんだ」
きっと、和史くんは私の事情を母から聞いたのだろう。彼の声に滲む気遣いが、かえって辛かった。
「私と話しても、面白くないよ」
「そんなことないさ。今日はもう帰るけど、また来てもいいかな」
「…………」
私は答えなかったけど、「また来るよ」と告げて、彼の足音は離れていった。
【続きは製本版でお楽しみください】